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「戦争反対」がこわい


安保法案のデモの画像などでここ数日、見かけることの多かった

戦争反対、とか許さない、やめろ、というようなことばたち。

そういうことばを見たり、聞いたりすると、

なんとなくこわいような、おそろしいような気持ちになります。

〇〇反対、許さない、やめろ、ということばを見聞きするとき、

その背景にある〇〇への憎悪や、〇〇は間違っている、

〇〇に賛成するひとは間違っている、というようなエネルギーを感じてしまうから。

これらの言葉が、なにか得体の知れないもの

(国だったり国会だったり、総理大臣という肩書き)

に向けられていると、どうしても麻痺してしまいそうだけれど、

これらの言葉が身近な人に向けられたときになにがおこるだろう。

たとえば、待ち合わせの時間に遅れてしまう人に対して

「遅刻反対」「遅刻ゆるさない」と言った場合。

平和的に物事が解決する

(自分の欲するものを相手がよろこびとともに差し出してくれる)気が

どうしても、しないのです。

「反対」「ゆるさない」というとき、それは果たして平和的なのか。

そんなふうに言うとき、それをする人は人として最低で、だから罰せられて当然だという

暗黙の了解みたいなものがないだろうか。

殴る、蹴るのような目に見えるものだけが暴力ではないとおもうのです。

「戦争反対」の根っこのところには

安心して平和に暮らしたい、すべての命が同じように大切にされる世界を望んでいる

そんな思いがあると思います。

そんなふうに願うことと戦争に反対しない、ということは矛盾するでしょうか。

わたしは、わたしの中に、何かを否定するエネルギーがあるとき

平和を感じることはできません。

世界は個の集合体です。

個が平和で幸せであること、これが大事じゃないかとおもうのです。

"You must be the change you wish to see in the world"

( 世界を変えたければ、まず自分がその変化になりなさい)

というガンジーのことばを反芻しています。


 

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